鬼滅の登場人物の苗字はどれも個性的ですね。
「煉獄(れんごく)」「宇髄(うずい)」、「不死川(しなずがわ)」や「甘露寺(かんろじ)」などなど、鬼滅の登場人物の名前は実在するのか………?
気になる人も多いのではないでしょうか?
お名前検索netで検索したところ、産屋敷、甘露寺、不死川などは実在するのですが………胡蝶、煉獄、宇髄などは残念ながらヒットしませんでした。
でもそれぞれの苗字の由来について調べると、興味深いエピソードがいっぱいだったのです。
【鬼滅】名前は実在した!?レア度No1の○○家は日本に十人?
お名前由来netで検索したところ、例えば物語の主人公竈門炭治郎の「竈門(かまど)」さんは【全国順位】 88,950位、【全国人数】およそ10人というレアさで、兵庫県の中でも明石市にある名字だとか。
ちなみに炭治郎の同期我妻善逸の「我妻(あがつま)」さんは、【全国順位】1,028位、【全国人数】 およそ17,500人で宮城を中心に東北に多いそうです。
嘴平さんは残念ながらヒットしなかったのですが、橋平(はしひら)さんならいらっしゃって【全国順位】 37,136位 【全国人数】 およそ70人だそうです。
【鬼滅】名前は実在した!?「甘露寺さん」は今何人いるの?
今回は刀鍛冶の里編オンエア記念として、甘露寺蜜璃(かんろじみつり)の甘露寺家のルーツを探ってみたいと思います。
甘露寺さんは果たして国内にどれくらいいらっしゃるのでしょうか?
そして、気になる由来は?
調べてみると、教科書でもお馴染みのあっと驚く人物に繋がりました。
全国におよそ五十人、甘露寺家の由来は南北朝時代にさかのぼる?
甘露寺さんは全国人数はおよそ五十人 、主に東京や神奈川、静岡県にお住まいだそうです。
全国順位は四六三二七位。
日本には十万から三十万種の苗字があると言われてますが、全国に五十人しかいらっしゃらないとなると、相当珍しい名前だと思います。
それに加えて家柄の良さも半端ないまさに華麗なる一族でした!
甘露寺家のご先祖は日本史上最大の事件を主導した超ビックネーム!?
ここからは鬼滅を離れて、甘露寺家のルーツを辿りたいと思います。
甘露寺を名乗る前は吉田姓で、この一族は藤原北家(ふじわらほっけ)勧修寺流(かじゅうじりゅう)の嫡流という名門中の名門。
そのご先祖は飛鳥時代に日本史を揺るがす大事件六四五年「乙巳の変(いっしのへん)」を主導した貴族中臣鎌足(なかとみのかまたり)こと藤原鎌足に行き当たります。
鎌足の次男で右大臣藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男である藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする藤原北家の流れをくみます。
そして平安時代の公卿藤原高藤(ふじわらのたかふじ)を祖とする高藤流(たかふじりゅう)と勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)の嫡流が甘露寺家という、由緒正しいお家柄。
公家としての家格は名家、明治以降の華族としての家格は伯爵家だったそうです。
【鬼滅】名前は実在した!?甘露寺家の祖も吾妻鏡に登場する有名人?
鬼滅の刃の中でも蜜璃は5人姉弟での長女、両親と共に7人の大家族の幸せな家庭という設定です。
大正時代は華族制度があったので、伯爵令嬢だったと思われます。
お嬢様育ちの蜜璃はどこか浮世離れしてますよね。
甘露寺家は現実世界ではガチな貴族?
そんなガチ貴族の甘露寺家の祖と言われるのは吉田 経房(よしだ つねふさ)という人物です。
経房は藤原家の一門で勧修寺流(かじゅうじりゅう)の祖である前出の藤原高藤から数えて十二代後裔。
鎌倉幕府と朝廷の間を取り持つ初代関東申次(かんとうもうしつぎ)に任ぜられた経房は、吾妻鏡や平家物語にも登場する公卿。
源頼朝の信任も厚く政治的にも重要なポジションにいた人物でした。
時代の激流に引き裂かれた吉田兄弟の絆
時代は下って鎌倉時代後期の勧修寺流には、吉田定房と吉田隆長兄弟がいたのですが、彼らは時代の激流に翻弄され、別々の道を歩むことになってしまいました。
時は激動の鎌倉末期、元弘の乱で鎌倉幕府を倒した第九十六代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、建武新政を実施したのですが、建武の乱で足利尊氏(あしかがたかうじ)との戦いに敗れたために京の都を離れて大和吉野で南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府によって建てられた北朝との間で南北朝の内乱が勃発したのです。
この時、楠木正成らと共に後醍醐天皇の側近としても使えた兄の吉田定房(よしださだふさ)は吉野へ移りました。
弟の隆長は京都にとどまり北朝に仕えたために、吉田家は兄と弟が袂を分かち合い、明暗が分かれてしまいました。
甘露寺はご先祖様が建てたお寺の名前?
弟隆長の三男の権中納言藤長の代になって、平安時代の公卿で権中納言藤原為輔(ふじわら の ためすけ)が建立したお寺の名前の「甘露寺」の姓を名乗るようになりました。
「甘露」とは、「心身を潤すもの」という意で、阿弥陀如来の別名を甘露王如来とも言うそうです。
同時に南朝についた兄の一族と勧修寺流の嫡流をめぐる争いが勃発するのでした。
甘露寺を名乗った吉田弟のファミリーが嫡流に?
南北朝に別れたことにより南朝の後醍醐天皇に仕える兄の定房と、京都に残った北朝側の光厳天皇(こうごんてんのう)に仕えた弟の隆長は袂を分つことになりました。
やがて兄定房の子の吉田宗房と隆長の三男で初代甘露寺藤長との間で勧修寺流の嫡流を巡る争いが勃発しましたが、兄定房の吉田家は南朝と運命を共にしたため没落し、そのため甘露寺家が優位となって嫡流となったそうです。
【平安コソコソ話】今昔物語に記された高藤のロマンス
甘露寺家が嫡流となった勧修寺流の祖の藤原高藤には、今昔物語巻22「高藤内大臣語 第七」に鷹狩りの時雨宿りをした貴族の家の娘とのロマンスが記されております。
高藤は趣味の鷹狩をしに南山階(みなみやましな、京都市山科区)に来ていました。
しかし雨が降ってきたので、近くの貴族宮道弥益(みやじのいやます)の屋敷を訪れたところ、弥益と話が弾み、ついつい長居をしてしまいました。
勧められるがままに一泊することになった高藤ですが………なんと弥益の娘の列子(れっし)に一目ぼれしてしまい、お互いに歌を読み合ったり意気投合、そのまま一夜の契りを結びました。
翌日、高藤は帰宅したのですが、父の藤原良門は息子の安否を気遣うあまりに激怒し、高藤が以後鷹狩厳禁の礼を出してしまいました。
その後、高藤と列子は長らく会うことができなかったのですが、文のやりとりはこっそり行ってたのではないでしょうか。
再び会うまでにはなんと六年の歳月を要しました。
その時列子には五歳になる娘がいたのですが、その娘は高藤と過ごした一夜で宿した子だったのです。
この娘こそが後に宇多天皇(うだてんのう)の女御(にょうご)となり、醍醐天皇(だいごてんのう)の生母ともなった藤原胤子(ふじわら の いんし/たねこ)でありました。
【鬼滅】名前は実在する!甘露寺家・まとめ
いかがでしたか?
兄弟でも入社した会社がたとえ大企業でも倒産することがあったり、新興企業でも時代の流れに乗って一気に大きくなる例がありますが、南朝の後醍醐天皇に仕える吉田定房と、京都に残った北朝側の隆長兄弟も明暗を分けてしまいました。
名前を掘り下げていくと、意外な事実に遭遇することがありますが、今回も激動の歴史に翻弄された華麗なる一族の物語が浮かび上がってきましたね。
甘露寺蜜璃も伯爵令嬢だと思われるので、その浮世離れした言動から育ちの良さは伝わってきますよね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
コメント